蓮光寺(東京都杉並区)に眠るスバス・チャンドラ・ボース

インド独立運動の英雄といえば、インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンディーとジャワハルラール・ネルー初代首相が世界的に有名ですが、インドでは、「スバス・チャンドラ・ボース(以下ボースと表示)」の名前を一番に挙げる人が多くいます。弊社ホームページにアクセスされる方はインド通でインド独立の経緯やボースのことをよくご存じの方も多いと思います。

 

ボースの波瀾万丈の生涯について述べると、数十ページの紙面が必要ですので、詳細はウィキペディアなどに譲るとして、ここでは簡単にボースの亡くなるまでの足跡を辿ってみましょう。

 

ボースは、1897年1月にイギリス領インド帝国ベンガル州カタックというところで生まれました。1920年頃からインド独立運動に参加し、翌年にはマハトマ・ガンディー主導の反英非協力運動に身を投じ、インドの即時独立を求める国民会議派の左派、急進派として活躍し、国民会議派議長も歴任しました。ボースは、「イギリスが武力で支配している以上インドの独立も武力でのみ達成できる」という過激な信念を主張して活動していたので、当時の政府からは危険人物として扱われていました。

1940年7月に大衆デモの扇動と治安妨害でイギリス官憲に逮捕され収監されます。獄中でハンガーストライキを行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出、アフガニスタン経由でソビエト連邦への亡命を試みカブール駐在のソ連大使と交渉しますが、許可が得られず断念します。そこでイタリア大使の協力を得てイタリア外交官に偽装し1941年4月2日にドイツのベルリンに到着します。4月29日にはドイツの外務大臣と会見することができましたが、インド独立への協力をすぐには得ることができませんでした。6月にローマを訪れ、イタリアのムッソリーニからドイツに働きかけてもらおうと試みますが、直接ムッソリーニに会うことができませんでした。ボースはベルリンに戻り粘り強くドイツ外務省と交渉を続けた結果、11月にはドイツ外務省によって「自由インドセンター」が設立され在外公館として認可されました。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに北アフリカ戦線で捕虜になったインド兵から志願者を募り自由インド軍団を結成しました。ボース自身も積極的に反英プロパガンダ放送に参加し、一定の成果を得たように見えましたが、当時対英和平の可能性を探っていたヒットラーは、インド独立に対する支持を明確化することは対英和平交渉で不利になると考え、ボースの求めていたインド独立に対する公式な表明は拒否しました。

結果的にドイツ、イタリアへの働きかけが失敗に終わったボースは、大島浩駐ドイツ日本大使に接触し日本行きを強く働きかけました。当時日本軍は東南アジアで連合国軍の一員であるイギリスとの戦闘でイギリス兵として戦っていたインド人兵士を捕虜にし、そのインド人捕虜を集めて「インド国民軍」を結成しようとしていました。その指導者にボースが適任と判断され、ボースの日本行きが実現します。1943年2月8日にドイツ海軍のUボート(U180潜水艦)でフランスのブレストを出航し、4月27日、アフリカのマダガスカル島沖の洋上で、日本海軍の伊号第二十九潜水艦に乗り移り、5月6日スマトラ島北端のサバンに入港。そこから航空機を使い5月16日東京に到着します。

東京に到着したボースは、インド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任し、その後10月21日、昭南(シンガポール)で自由インド仮政府首班に就任、日本軍の占領地域である東南アジアでインド国民軍の募兵を積極的に行いました。ボースの人望もあり45,000名の兵が集まったといわれています。その後インド国民軍は、インドの軍事的解放を目指し、日本軍のインパール侵攻作戦にも6,000名の兵を出し参加しますが、この戦いでインド国民軍兵士6,000名のうち戦死者400名、餓死者・戦病死者1,500名という大きな犠牲を払いました。その後は主にビルマ戦線で連合国軍と戦い、最後はタイまで後退し終戦を迎えました。

 

1945年8月15日、日本の敗戦により、日本と協力してインド独立を勝ち取るという夢が破れたボースは、次に満州国に渡りソ連軍に投降してソ連との交渉を試みる計画を立てます。8月18日午後2時、台湾台北の松山飛行場から大連行きの九七式重爆撃機に乗り込み満州国を目指しますが、離陸直前にプロペラが外れ、機体はバウンドして土堤に衝突し炎上するという事故が起こってしまいました。ボースは炎上する機体から脱出し、全身大やけどで台北市内の日本帝国陸軍病院に搬送されましたが、同日午後11時41分に帰らぬ人となりました。

 

遺骨は9月5日に台北から東京に運ばれ、日本陸軍はインド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに遺骨を引き渡しました。

9月18日に東京杉並区にある日蓮宗蓮光寺において葬儀が行われ、それから毎年ボースの命日にあたる8月18日には同寺で法要が行われているそうです。

 

以上ボースの一生を大まかに辿ってみましたが、インド独立運動にすべてをかけた凄まじい人生です。

はじめてボースの生涯を知ったとき、日本の幕末で活躍した坂本龍馬のような生き様だなと思いました。日本人が坂本龍馬を尊敬するのと同じ感覚で、インド人もボースを慕っているのではないかと感じました。

インドの将来を想い、イギリス支配の中で苦しみ喘ぐインド国民をなんとか救いたいという一途な思いで、インド独立運動に一生を捧げたボースの姿勢が、多くのインド人の尊敬を受けるのは当然だと思われます。イギリス人がインド人を殺しても狐と間違えたといえば罪に問われなかったとか、イギリス人が機械織りの綿製品を売りつけようとしたが、すでに手織りの良質な製品が出回っていてインド人は購入しなかったため英国の官憲が、インドの手織り職人たちを集めて、その手首すべて切り落としてしまったとか、また、白人に対しては必ず「マスター」という敬称をつけるようインド人に強制し奴隷のように扱っていたというような植民地支配下当時の話が残っています。このような時代背景がボースに「インドの独立も武力でのみ達成できる」という過激な信念を持たせたのではないでしょうか。

 

筆者は在インド日本大使館在勤中の1998年2月に東京に出張した時、帰路に「ボースがマダガスカル島沖洋上で乗り移ったといわれる伊号第二十九潜水艦の模型」を東京からニューデリーの日本大使館まで手荷物で運んだ記憶があります。この模型はその後コルカタの博物館に寄贈されボースの展示コーナに展示されたとの話を聞かされました。それから3年後の2001年4月から2004年5月まで在コルカタ日本総領事館に勤務した際、博物館に展示されている模型を見に行く機会が何度かありました。博物館に展示された模型とのご縁でボースの一生に興味を抱き、いろいろ調べているうちに、いつの間にかボースファンの一人になっていました。

                                      

 

今回、ボースについて原稿を書こうと思い立ち6月20日(土)に日蓮宗蓮光寺に行ってきました。蓮光寺は、地下鉄丸ノ内線「東高円寺駅」から徒歩5分ぐらいのところにあるこじんまりした小さなお寺で、参拝者もいない静かな境内にはボースの銅像と石碑が建っていました。石碑には「ネタジスバスチャンドラボースの碑」と彫られていました。ネタジとは指導者という意味です。この石碑の前で「ボースの熱い思いが伝わる原稿が書けますように」とお願いしてこの記事を書かせていただきました。

                                        6.24(堀内)

 


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